あっぱれな―   7月3日’04


 頭の・・、心の・・、体の・・、気持ちの・・、どこか解らない、どこと特定できない―ところに、何かが澱んでいる・・・ような気がする。おそらく言葉にして明解になど(単に私の能力不足・・・!?)できない、なんとなく消化不能のようなものがどこかに潜んでいる。嘗てのいわゆる思春期―の頃も、何だか正体不明のような重苦しいものがいつもどこかに纏わっていたような・・・。(・・・・ナヌ―、私は未だに思春期!!??)
 でも考えてみれば(たぶん考えなくても―)、それは無心なというか純粋なというか単なる無知というか・・の子供の時代以外、よく言う物心がついてから、ずーっと感じているものかもしれない。
 それはその時々の状況で感じ方が違うだけで、今は少しばかりそれが強く感じられるような・・・。
 言葉に出来てそして明解になればそれで済むのか・・・といえば、それはまたそんなものではないらしいし、やっぱりそれは、言葉にならない、言葉が見つからない・・ようなたぐいのもので、五木寛之が「暗愁」と表現していたけれど、そうなのかな・・というほどのことなのですが・・。

 ここ数年の一連の報道される出来事や事件の痛ましさや残酷さ、忌まわしさや哀しさが、そんな澱みを増幅させているのか、まったく無関係ということでもないだろうとは思うけれど・・。
 多分大人はそれは表面には出さない。それが大人!? 私は年を食っても大人じゃないからな〜。それでもやはり常日頃の日常生活はそれなりには楽しんでというか普通には過ごしてはおりますのですがー。

 突然話は飛んで、参議院選挙がある。年金はいったいどうなるんだ!若い人は「どうせもらえないよ―」などと諦めている人もいるようだけれど・・。そうなのです―。何が?って、そんな言葉にならない澱みが、無力感につながるとヤバイのではないか・・・なのです。用心、用心・・・。(ちょっと支離滅裂!?)

 由井啓盟サンの母親の由井すみゐさんが亡くなって2ヶ月が過ぎた。91歳一ヶ月を生きて彼女は万緑の爽やかな季節に永遠の旅立ちをした。多くは語らない人であったが、91年を生きれば、それは戦争の世紀も通り過ぎており、ある意味時代に翻弄された人生ともいえるのかもしれない。
 大陸花嫁として満州に渡り、終戦の混乱を経て生まれ故郷に無事引き揚げ、そこでまた開拓の辛酸をなめる・・・。苦労した人ほど、それを語らないというけれど、それこそ言葉などでは表せない、言葉にはならないことなのであろうと思う。
 語らないけれど、というか語らない分というか・・、根は気丈な人であった。「意気地なくなってしまって・・・」などといいながら、気力と感じ取れる生きようととする生命力のようなものは強く、身の回りのことは自分でやろうとしていた。骨などはスカスカで普通なら歩けなくなるところを、両方の手に杖をついて、半歩どころか足の半分づつの歩みでも歩いて外に出ていた。その歩みで、家の裏の土手に登り、好きだった早春の摘み草(その時は萌え出たばかりのヨモギ)をしていたのには、びっくりというか、半ば厭きれて見た(不謹慎ー)。最期まで呆けることもなく、子供達や遠くの親戚などに頻繁に手紙を書き、「今日は雪が降った。」「デイサービスに行った」とか一言だが、毎日ほとんど日記をつけてもいた。
 病院のベッドで、意識もなくなる(・・という状態がよくわからないが。目も開けず、話をすることもなくても呼べば目をしばたいたりする状態の時もあった)かというような頃、「孫が来ないかや・・・」としきりに言っていた。3月11日に入院し、その月末に見舞いに来ていたので、「この間来たばかりじゃない、そんなに来れないよ―」・・なんとも非情かもしれないがそんな言葉を交わしていた。
 そして5月1日。大好きなばあちゃんを気遣いながら、連休を利用して帰省した孫たちが病院へ行き、「ばあちゃん!」と呼びかける。それを待っていたかのように、子供達や孫達に見守られながらその数時間後に息を引きとった。
 むしろあっぱれな大往生であった――。


 

                                           HOME  「気まぐれなエッセー」トップに戻る