時間に―     2月25日’08
 
 長者原の今年の冬は、最低気温氷点下10何度真冬日・・という日がけっこう続いたりして、寒い冬―という感じです。
 いつもながら時間に追われているような感覚で時の過ぎ去るのが異常に(!?)早い気がしてならない。年のせい・・・?? いつもあれをしなければこれをしなければ・・・と頭にこびり付かせているからなのだろうか・・。でもこれは曲がりなりにも現役で社会生活をしていれば逃れないことでもあるだろうし、やるべきことがある―ということはある意味ではとても幸せなことでもあるだろうから、少しでも気持ち的にも苦と思わずに、日々連綿と繰り返す生活の中にもどこかに楽しむ余裕と遊び心を持ってやっていくのが得策!?というものだろう。でもやっぱり時には時間よ止まれ!とか言ってみたくもなるような・・昔こんなタイトルの何かあったなァ・・。
 
 そういえば40歳で私が孫となった明治生まれの祖母の口癖が「あ〜忙しい忙しい!!」だった。夫を戦争で失ったのはまだ35歳頃のはず、その時にはもう6人の子供がいた。実際とてつもなく忙しかっただろうし、どこかで忙しい忙しい―と言いながら自分を奮い立たせていたのかもしれない。
 私の母が長女で下は女4人、末っ子の長男はまだ小さな子供ということで母は満18歳で結婚し満19歳で私が産まれた。25歳で養子になった父もまたそれなりに大変だったと思う。そしてすぐ妹が産まれ、3年後に弟が産まれ、12人の大家族となった。米作りの農家だからご飯に困ることはなかったのだろうが、今と反対で田んぼをもっと増やせ―という時代だったのでできる限り米は供出したのか、麦ご飯を食べていたことを覚えている。 
 祖母にとっての舅、夫の父がいた。私にとっての曽祖父で、私が結婚して長野に越してくる一ヶ月前に83歳で亡くなったけれど、私の知っている曽祖父は相撲が好きで、人が来ると「お!大将!来たな!」とか言って歓迎し、お年玉をはずんでくれる好々爺だったのだが、戦争で息子を亡くしたことは表面には出さないが心の傷となっていたのでしょう・・、お寺通いが頻繁で随分寄付もしたりしていたから、そのことが祖母や母を苦労させる一因ともなり時折りは眉を顰めていたようだった。
 寝坊していると「早く起きろず!」とすごい勢いで怒鳴られ、一両だけのローカル線(もちろん今はない)でよく高畠町の祖母の兄家族と住む祖母の母のもとによく連れていってもらった。手作りの菓子作りのお店だった。竹に飾った提灯祭りの遠き日のノスタルジー・・。
 一緒に手を引かれて祖母と歩いていると「娘さんですか?」とよく尋ねられていた。私はただそう聞かれていることが不思議だった。祖母の後追いをしていたというのはおぼろげだが、一緒の布団で寝てどんぶらこっこ・・の桃太郎や熱い熱い・・のカチカチ山、早くわたれ・・の因幡の白うさぎなどの昔話をしてもらいながら寝るのが常だった。夜のトイレが怖くて祖母を起して付いて行ってもらった。私はまったくのおばあちゃん子であった。大家族の中で若くして妻となり子供をもった母の苦労を感じるには幼くまだ成長していなかった。
 ひょっとすると苦労って端からみてそう評価するもの、あるいは後であの時は苦労だった・・とかいうもので、その時は苦労というよりやらなければならないからやっていたということもあるのかもしれない。自分で苦労だ・・と思ってしまったらそれはたぶんもっとつらくきついものになってしまうだろうから・・。
 それこそALWAYS三丁目の夕日・・の昭和30年代、泥んこになって野っ原で遊び廻った幼き日の頃、時間の流れがちがっていた・・というより時間を意識することがなかった、暗くなれば家に帰ればよかった・・ほのぼのと浮かび上がる古き良き時代・・私にとってはそうなのだが、父母たち大人たちはプライベートな時間を持つことなどさえ露ほども頭に無いほどに必死で働いていたのだ。村の祭り、さなぶりや収穫の祝い・・などが息抜きのハレの日だったのだろうか・・。

 その祖母が去年11月17日に97歳で生涯を閉じた。3日に行われた曽祖父の33回忌に行けなかったのと、ブラジルに住む叔母が来ているということで、11日に米沢の実家に帰った折りには、茶の間のこたつに座り一緒に食事をした。話しかけると声にはならなかったが頷いていた。それが祖母との最後になった。明治大正昭和平成・・と生き抜いてきた一人の女性が息を引きとった。もっと話を聞いておけばよかったとも思う。今また時代が計り知れないところで急激に動いているような気がする。どこへ向かっているのだろう・・どこへ向かおうとしているのだろう・・ふと不安になる。

 忙しい―から始まったらこんなふうに筆?が進んでしまいました。あしからず・・・です。

 

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