鏡―      3月3日 ’06

 3月3日は桃の節句。・・・だけど旧暦の3月3日は新暦の3月31日。本当は旧暦が本来でそちらの方が季節に合っているのでしょうが・・。
 以前子供たちと賑やかにしていた頃は、頂いた段飾りのお雛様を早々に飾って、ひな祭りのお祝いを家族で楽しんだりもしたのだけれど、子供たちも家を離れてしまった今は、お雛様を飾ることもしなくなり、桃の節句も普段どうり・・と相成ってしまった。(当の娘が今年家に帰ってきたのだけれど、今日は遠方に出かけてしまって留守・・)
 季節季節の行事なども一緒に楽しんでくれる人がいるからこそのことであることを強く感じたりもする。今は「お内裏様」と「お姫様」という飾りはなぜか飾ってみよう―という気にならない。
 無味乾燥で余裕のないことではいかんな・・という気持ちがないわけではないのだけれど、気持ちがいかんせんそういう方向に向いてこないのだからしょうがない。
 自分にごほうび――ということを最近よく耳にしたりするけれど、私もいずれは自分にごほうびという感じで、一人でもひな祭りを祝う気持ちを持てたらいいな〜〜といった願望もチラッと気持ちのどこかに見え隠れする。これからはもっと一人の時間を多いに楽しむ魂胆!をしておこう―とも思う。

 訳もなく気分が落ち込んでしまう・・・という時がある。年を重ねても未だに心が揺れたりぐらついたり・・というのは、あまりにもそれなりに成長していない・・との証しでもあるのかもしれないのだけれど・・。気弱になり、臆病になり、自分をだめ人間と思ったりしてしまう・・。これまで何度それを重ねて、未だに繰り返している・・というのもまた、さらに落ち込みに拍車をかける要因にもなってしまうのだが・・。
 日本人は他の国の人よりも心が傷つきやすい、そういう遺伝子をほとんどの人が持っているのだ・・ということは、つい最近TVで知ったことであるが、そうならばこの年?の私が年がいもなく?心が痛み傷ついてしまうというのも仕方のないこと・・・と言い訳ができる・・といっていいのかな・・??
 訳もなく―。実際自分でも解らずに・・ということもあるのだが、今の私の心の落ち込みは、訳もなく・・という訳でもない・・・・・。

 突然に一般論に飛んでしまうのだけれど、人はそれぞれにこの世に生を受けて必ず死を迎えるその時まで、一度限りの生をそれぞれがそれなりに、楽ばかりではないむしろ苦の方が多いかもしれない人生を懸命に生きている。一度限りのその生もいってみればほんの短いあっという間の一生――といったほうがいいようなものである。
 そんなことを思えば人間に限らず生きとし生けるものは何といとおしい存在ではないか・・・と思えたりもしてくる。五木寛之が書いておられた(たしか・・)「・・・生きているだたそれだけで意味のあること・・・」ということが何かしらやさしい感じで心に響いてくる。生きていく・・・言葉をかえれば食べて生活をしていく・・ということは大変なことなのである

 他人は自分を写す鏡――というけれど、その鏡もずいぶんといろいろでいろいろに写しだしてくれる。いったいどれが自分なの・・?という感じにもなるほどである。よく「人はいろいろなことを言うけれど、解っている人は解っている・・・」という言い方もされるし、「言いたい人には言わせておきな―」と言われたりもする。
 優しい―とは人を憂う―。ある意味強くなければ優しくはなれない。優しくなりたいものと思う・・。



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