記憶―   12月3日’05


 遠い記憶がある・・・人はだれにでも・・・。――内山節さんが講演会で話された。
 その遠い・・・とは、人間が自然と共に生きていた頃の遠さ・・・。
 つまりだれにも遠い昔自然と共に生きていた頃の遠い記憶がある―。自然と共に生きていた頃・・・石器時代を想像したが、そうじゃなかったか・・。
 人はだれにも・・・。内山節さんが言わんとしていることと少しばかりニュアンスが違うのかもしれないが、なんだかいい話ではないか――。なぜか単純にそう思ってしまった。
 人個人の一生のなんと短いことか・・。その短い個人の記憶を超えて、遺伝子の記憶が面々と引き継がれているということだ―。さかのぼれば地球上に初めて生まれた一つの生命の誕生から引き継がれている遺伝子の記憶・・・。それが意識にのぼるかのぼらないかは別として、遠い記憶としてある。一個(なのかどうかはよく知りませんが・・)の原始の生命の誕生が今生きている人間(地球上の万物もが・・か)につらなっている・・・。そして“私”のうかがい知れない遠い記憶がある・・・。考えれば不思議な気もしないではないが、宇宙的に壮大な話ではないか・・・。

 自然(しぜん)という言葉はもともと日本にはなくnatureを翻訳するときに生まれた言葉、概念ということだ。しぜんではなく「じねん(自然)」という言い方はあったそうな―。
 ヨーロッパのように人間と相対するものとしての自然―とうい感覚は日本にはなかった。うすかった・・?
 自ら――みずから、おのずから――が生まれる(た)背景、環境。だれにでも遠い記憶としてある自然と共に在った生――それが基本、軸、土台としてあるのなら、そこから離れた時、振り子のようにそこへ戻る・・。完全に戻れないとしても、基本をいつも意識している―ということだけでも、基本がまったくない状態よりも、格段によりよいことは間違いない―と思いたい。
 
 「五人百姓の会」の会長戸来さんは、農業の暦ともいわれる月の暦(陰暦)をよく調べていらしてとても詳しい。(それだけに留まらない博識と良識は素晴らしいとしか―) その戸来さんによれば、今年、来年というここ数年は、温暖な気候になる周期にあたるとのことである。秋が長くなる傾向なのだそうだ。月の暦にそんな周期があるということをまったく知らないでいたし、そういう周期が月の暦にあらわれるということが驚き!?でもあるのだが・・。・・とすると、今の温暖化は当然ということになるのだろうか・・という疑問が生じてくる。
 すべて数字で表し、科学的に証明されなければ、信じることができない・・というのもおかしなものと思うのだけれど・・。(というより、きちんと数字で表すことなどできないことの方が多いと思う・・のだが) ・・というのも、人間や万物には直観力や本能、想像力・・など、おろそかにあなどれないすぐれたものがあるはず・・と思うから・・。でもそれが段々と薄れている、乏しくなっている・・・らしい・・。
 たとえ数字や科学的な証明がなくても、直感力や本能、想像力が薄れてきていても、内山節さんが言われたように、自然と共に生きていた頃の遠い記憶―が無意識にも基本にあるのなら、そこから離れた時には、その基本に戻る、戻ろうとする“力”がはたらくと思いたい―。少なくともその基本があるのだ・・と思う思えるだけでも、まったくないよりはいいはず・・と・・。
 ・・・・・と、こんなおめでたい(・・といわれるかもしれない)考え方もあっていいのでは・・?いいですよ―!ネ


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