幸せ   3月15日’03


 8年前に大阪から長野に移り住んで有機農業をしていた若いHさん夫婦が、小学校に上がる6歳とやんちゃな2歳の男の子とともに、この春淡路島に移る。
 ゆくゆくは大阪に住むHさんのご両親の世話をしなければ―ということもあるようだが、いろいろな理由、思いがあってのことのようだ。妻のMさんの「海の見えるところで住んでみたい―」というのも淡路島に決めたことの理由のひとつらしい。いいなー。そんな願いも叶えようとする生きかたって―。私などは単純にいいなーと思う。淡路島に確保した土地に、しばらく仮住まいをしながらこれから自分で家を作る・・ということだから、大変なことは大変なのでしょうが、爽やかな潔い印象さえ受ける。
 
 Hさんは、「幸せに・・・」ということを何度か口にした。
 「幸せになるために生きていると思うんですよね―」
 「幸せって何なのかはまだよくわかりませんけどね・・」
 二人の男の子と共にHさん夫婦はお互いに信頼し敬愛し理解し合い、それだけでも充分に幸せそのものに見えるのだが、今居るところでは求めているものが実現できないという思いが強くなってきての決断のようらしい。多分それは、具体的に言葉で言い表そうとしても言い表せないような、形として厳然とあるものではなく、そこに身を置いて自分が安らぐというのか違和感がない状態で居られるというようなものなのだろうと、Hさんのちょっと普通は(?)あまり口にはしない「幸せ」などという言葉を聞いて思ったりした。
 でもそんなふうに私がごちゃごちゃというまでもなく、HさんにはHさんなりの幸せの輪郭が形として見えてきているようだ。そのための淡路島行きなのだと私には感じられた。

 随分前のことだが、古書店で谷川俊太郎さんの『ことばを中心に』という“最新エッセイ集”(1985年一刷で、帯にそうある)を見つけて買った。『ことば・・』という題名と、谷川俊太郎さんの名前に興味を覚えて求めた。
 その中の一文にこんなことが書かれていた。引用させて戴きます。
 ――  世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 宮沢賢治 
 余りにもまっとうなその言いかたに、一時期私は烈しい反撥を感じた。それじゃ個人の幸福は永遠にありえないじゃないか!世界なんて糞くらえ、俺はひとりで幸福になってみせる!そうして私は「幸福な男」という詩を書いた。――
 それは、幸福な男は、気障っぽい、話題がない、仲間はずれ、ひとりぼっち・・・というような内容の詩で、「そう書いた私はしかし、やっぱり幸福だったとも思えない。」と、その後に続いている。
 そうなんだろうな・・という共感? のような感覚で印象に残っている。

 今は、普通の日常のお茶の間のTVに生々しい戦争の映像がリアルタイムで映し出される時代だ。
 戦争を始めるか始めないか―などということをを話し合っている・・というのも、とてもおかしいとしか言いようがない。しないに決まっているではないか―と。
 「幸せ」というのも、人それぞれにいろんな形があるのだろうけれど、「戦争」は、これは絶対に「幸せ」とは対極にあるものだと断言する。どんな理由があろうとも―。
 ゲームか映画のように、何だかどこかしらで現実感が希薄になっているような現象が起きているようにも思う。
 願うことすべてが満たされる―などということはありえないし、すべてが満たされたらそれこそ生きている意味がないというものだろう。がやはり、何かを求めているとしたら、Hさんの言うようにそれは“幸せ”なんだろうな・・・。



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